2026年6月14日 主日礼拝
- fmiwadecc
- 6月15日
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1. 当時の「幼子」が置かれていた社会的立場
当時のユダヤ社会において、幼子は「一人前として数に数えられていない」存在でした。
無力で無権利: 社会的な地位、財産、業績、あるいは律法を完璧に守る能力など、何一つ「誇れるもの(誇るべき実績)」を持たない存在の象徴です。
ただ受けるのみ: 自分の力で生きられないため、親や周囲の慈悲と養育を100%信頼して、ただ受け入れるしかありません。
この「幼子のくだり」は、ルカによる福音書18章において、まさに絶妙な文脈に挟まれています。
前:ファリサイ派と徴税人のたとえ
自分の正しい行い(業績)を誇るファリサイ派ではなく、ただ「神様、罪人の私を憐れんでください」と胸を叩いてへりくだった徴税人こそが義とされました。
中:幼子たちを祝福するイエス(当箇所)
弟子たちは「(数にも入らない)子供を連れてくるな」と叱りますが、イエスは拒まず、むしろ恐れなく近づき、触れ合わせます。
後:金持ちの議員の質問(「何をすれば永遠の命を受け継げますか」)
彼は「すべての戒めを守ってきた」という自分の完璧な業績を握りしめていました。しかし、イエスに「財産をすべて捨てて従え」と言われ、悲しみながら去っていきます。自分の力(実績や富)に頼っていたため、神の国に「入る」ことができなかったのです。
これらを繋ぎ合わせると、イエスが求めた「信仰の純真さ・無垢さ」の正体が見えてきます。
業績主義からの脱却(へりくだる態度) 「これだけ善いことをしたから、神の国に入れるだろう」というプライドを捨てることです。ファリサイ派や金持ちの議員のように自分の正しさに頼るのではなく、徴税人のように「私は何も持っていません」と認める態度です。
絶対的な信頼と無垢さ 幼子が親の愛を疑わずにその胸に飛び込むように、神の愛を計算なしに100%信頼すること。これが「信仰の純真さ」です。
恐れなく近づき、触れる 資格や条件を気にして縮こまるのではなく、イエスが「来なさい」と言ってくださるのだから、その言葉をそのまま信じて、ありのままでイエス(神)に近づき、触れる。その無防備なまでの親密さです。


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