2026年6月7日聖餐礼拝式
- fmiwadecc
- 6月7日
- 読了時間: 2分
私たちはよく、「イエス・キリストを信じて救われる」という救いを考えます。確かに、未信者が福音を信じ、神様の子どもとされることは救いの出発点です。
しかし聖書には、信じた後にも神様が私たちを造り変え続けてくださる「信仰者の救い」があります。
人は本来、神様の似姿として創造されました。(創世記1:27)
ですから、信仰生活とは、「私はなぜ存在しているのか。」「神様は私にどんな人間になってほしいのか。」を問い続ける歩みでもあります。
神様が求めておられるのは、単なる行いの良さではなく、「聖さ」です。
そのことを最も深く教えてくれるのが、悔い改めの歌と呼ばれる詩篇51篇です。
ダビデ王は、大きな罪を犯しました。しかし彼が神様の前で願ったのは、「どうか罰を軽くしてください。」ではありませんでした。
彼は、
「神よ、私に清い心を造ってください。」(詩篇51:10)
と祈りました。
ダビデは、自分の罪が神様の御名を汚してしまったことを深く悲しんだのです。
そして彼は知っていました。
「神の求めるいけにえは、砕かれた霊。砕かれ悔いた心を、神よ、あなたは軽んじられません。」(詩篇51:17)
神様は、完璧な人を求めておられるのではありません。自分の非を認め、神様の前にへりくだる人を求めておられます。
悔い改めることは敗北ではありません。神様の似姿へと回復されていく、恵みの始まりなのです。


コメント