イザヤ書16章
- fmiwadecc
- 6月9日
- 読了時間: 3分
旧約聖書の神といえば、「罪を厳しく裁く恐ろしい神」というイメージを持たれる方が多いかもしれません。しかし今日のイザヤ書16章には、私たちの想像を超える神様の「涙」が描かれています。
1. 敵の破滅を悲しまれる神
ここで預言されているモアブという国は、イスラエルを裏切り、苦しめてきた敵国です。彼らは豊かな農産物に恵まれて傲慢になり、神様を無視して歩んだ結果、大国の侵略を受けて破滅の危機に瀕していました。
普通に考えれば、「自業自得だ」「敵が罰せられてすっきりした」となるところです。しかし、預言者を通して語られた神様の言葉は、驚くべきものでした。
「それゆえ、わたしの内臓はモアブのために竪琴のように響き、わたしの心は痛む。」(イザヤ16:11)
ここで「内臓が響く」と訳されている言葉は、現代の言葉で言えば「はらわたがちぎれるほど胸が締め付けられる」という、痛烈な悲しみの表現です。神様は、自分に敵対し、罪によって自滅していくモアブの姿を見て、まるで我が子を失う親のように、激しい涙を流しておられるのです。ここには、「罪は決して容認しないが、罪人をどこまでも愛し、その滅びを悲しまれる」という神様の本心が溢れています。
2. 十字架で完成された「敵への愛」
この旧約聖書に灯っていた神様の愛の種火は、新約聖書のイエス・キリストにおいて、まばゆい光となって私たちを照らしました。
イエス様は山上の垂訓で、「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と語られました。これは、単なる道徳的な努力のすすめではありません。「悪人にも善人にも太陽を上らせる、天の父なる神様のはらわたがちぎれるほどの愛を、あなた方も知り、その愛に生きなさい」という招きです。
そしてイエス様は、この言葉を口先だけで終わらせませんでした。ご自身を十字架につけ、嘲笑う人々のために、命が尽きるその瞬間にこう祈られたのです。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」(ルカ23:34)
十字架の上で流されたイエス様の血と涙こそ、イザヤ書で「モアブのために泣く」と言われた神様の涙の、究極の姿でした。
おわりに
私たちは日々、人間関係の中で、自分を傷つける人、受け入れがたい人——いわば「小さな敵」に出会うことがあります。私たちの狭い心では、どうしても相手を裁き、その不幸を願ってしまう弱さがあります。
しかし、そんな私たち自身もまた、かつては神様を無視して歩んでいた「神の敵」であったことを、聖書は教えています。神様は、そんな私たちのためにこそ、はらわたを痛め、独り子を十字架にかけるほどの愛を注いでくださいました。
今週の歩みの中で、もし心がトゲトゲしたり、誰かを赦せない気持ちになったりした時は、あの十字架の主を見上げましょう。そして、「あの人のためにも、神様ははらわたを痛めて泣いておられるのだ」という天の父の眼差しを思い起こし、一歩を踏み出す力を求めて祈りましょう。
お祈りいたします。


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